悟りについて … エクトン 


下記は、悟りについて考えるところがあって、2011年のエクトンの個人セッションで聞いたときのものです。(訳は私です。エクトンについては→コチラ


☆悟りについて伺いたいです。
私の知人が悟りを体験した人を調べていて、その人たちは、悟りとは物質世界を超えて個人が存在しないと知るというようなことを言っているようです。
そして私は、深い部分で、この世界において個人として存在する意味がないならば、他の人が良い人生を送る手伝いをする意味もないかもしれないと思いました。
私はそのことについて、とても考えてあなた(エクトン)のセミナーの録音を聞いているときに、(ふと)言葉の世界を超えたら個人がいるのとないのは同じことかもしれないと思いました。
そして、大切なことは言葉の表現や悟りの理論ではなく、愛を表現することと互いを尊重しあうことだと思いました。
あなたはどう思いますか?
このことについてのあなた(エクトン)の意見はどのようなものでしょう?


私もあなたと同じ意見です。

エンティティ、悟りは扱いにくい(トリッキーな)問題です。それは奇妙なものです。いいですね?

基本的に、あなたが話をした人で、物質や物質世界から自分を隔てる必要があると言っている人がいたら、それは信念体系です。それが全てです。それは信念体系です。それはある人々が信じている方法です。

そしてあなたが理解しているように、神(God)へ至る道はたくさんあります。いいですね?
ある人々は神への道を見つけるために世間から離れて仏教の僧院に入り、他の人々は人生に足を踏み入れます。彼らは人生(life,生活)を離れることなく、個人的な進化や悟りの感覚を得るために人生に入り込むのです。
それは洞窟に身を潜めて瞑想する仏教徒とマザーテレサの違いです。
二つの道とも適しています。
けれども各々が、何が一番自分にとって適しているか決める必要があります。

私とやりとりしようとやってくる人たちは、大抵は愛について学びたかったり、どのように愛を経験するかについて学びたかったり、充実した豊かな人生を望んでいます。
洞窟に篭り、悟りについての抽象的な概念のもと瞑想することを欲する人々は、あまり私のところにはやってきません。

もちろん私はやってくる人がどんな人であっても話をしますが、私の感じでは、悟りについて焦点を当てすぎる人々は世界が提供するたくさんのものを逃してしまいます。
彼らはこの惑星の移り変わりや進化に影響する機会を持つことを逃します。
それが人生に参加する人と、人生を観察する人の大まかな違いです。

悟りの概念に集中する人たちは概して観察者です。
それは何も悪くありません。
人生経験の豊かさに焦点を当てる人々は参加者です。
一つの道が他の道よりも優れているということはありません。
それはただ異なるというだけです。

そして、あなたの道は大まかに言って、この時点において、参加者です。
あなたは人々が良い人生を送ることを手伝いたいと思っています。
あなたは良い人生を生きたいと望んでいます。
あなたは人生から引き下がりたいとは望んでいません。
あなたは人生から逃げることを望んでいません。
あなたは人生から浮かび去りたいとは思っていません。
あなたは惑星の上に漂って、人間が、蟻のような人間がすることを見下ろしたいとは思っていません。
あなたは参加したいのです。

もちろん時に逃げたいと思うこともあるでしょう、もちろん休みが必要なときも、もちろんただ自分の中に入って逃げたいというときもあるでしょう。
それは全く構いません。
けれどもあなたはいつも戻ってきます。あなたはいつも参加に戻ってきます。なぜならそれがあなたの人生の目的であり、人生のこの時点におけるあなたの個人的な進化の目的だからです。

(観察する人と参加する人は深い意味において同じなのでしょうか?)

神(を可能にするもの)の最も壮大な特質を経験したいという深い欲求において、同じ目的地への異なる道があるということです。

(はい)

一方が他より良いということはありません。
そして再びになりますが、時に人生の中で転換や変化があります。
例えば、一年間洞窟の中で蝋燭の炎のもと瞑想をしたいという人について話しましょう。彼らは一年間全てから逃げ出したいと望み、一年間瞑想することを望みます。彼らはいずれ社会の文化の中に戻ってくることを必要とします。
たとえ、食べること、ただ口の中に食べ物を入れることであったとしても、彼らは何らかの形で参加をしなければならないのです。
そして私がお話したように、もしもあなたが完全な参加者であったとしてもあなたは時々休息を必要としますし、それなので、絶対的で完全な参加の道も、絶対的で完全な観察の道もないのです。
それらはいつでも交ざりあい、溶け合っています。

(はい)

そうでなければなりません。
わかりましたか?

(わかりました)

よいでしょう。
しかし再びになりますが、一方が他よりも良いということはないのです。
ただ違いがあるということです。

(はい)

他には?

(ありがとう)



ということでした。
私個人としては、今それほど悟りという言葉にフォーカスして過ごしてはいないのですが、その言葉の定義も経験もそれぞれであっていいのではないかと思っています。

(2013年2月、さとり→悟り、加筆)






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